7 霧の向う側

 7 霧の向う側
  
 夜の、しかも樹上であるという事を忘れる。広い部屋には大勢の人達が集まり、楽師達が奏でる音楽は軽やかな旋律。並べられたテーブルの上には色とりどりの花々と豪勢かつ繊細な食器の上の数多の料理。天井には不思議な光源がふわふわと浮かび、真昼の様に明るい。それは端から見れば夢の様な宴席である。しかし人々は皆、ルディーナ達を物珍しそうに見遣ってはひそひそと話している。その歓迎が本心ではない事は明らかで、楽しめる筈も無い。
 しかしレーラは物怖じもせずにワインの杯を傾けていた。彼女の前には空になった酒瓶が既に五つ六つ。高級ワインを飲み倒されて給仕の顔は引きつっていた。もし宴の席で酒を切らしたともなれば彼等の責任問題だからなのだが、そんな給仕の不安も何のその、レーラは更に四・五本注文を追加した。
「エスターはソフィア王女によほど見込まれた様ね。」
 レーラはキャシーのグラスにワインを継ぎ足して少し悪戯な笑みを浮かべた。しかしキャシーは振り向きもしない。着飾ったアルンの女性達を眺めたまま暫く黙っていたかと思いきや、
「エルフってみんなエスターみたいなだと思ってたけど、それ程でもないのね。」
 ぽつりと言った。レーラも釣られて視線を追う。煌びやかなドレスに負けないだけの気品と美貌を備えた面々ばかりだ。が、エスターと比べれば確かに色あせる。
「あなたはエスターに慣れ過ぎてるのよ。基準が高すぎると不幸になるわよ。」
「そうかもね。小さな頃からとても憧れてたわ。」
キャシーはしばし間を置いて応えた。
「子供の頃?幼児が好みなの?」
「その頃のエスターは遥か年上だったのよ。」
 キャシーは振り返ると、少しむっとした様に言い捨てた。
「?」
 レーラはこめかみ辺りに指を添えた。
「まあ、ともかく、その肝心のエスターがまだ戻らないのでキャシー姐さまは不機嫌・・・と。気をつけなさいよ。ソフィア王女ってエスターの好みなんでしょう?」
 レーラは尚もからかう。
「何で判るのよ。」
「簡単じゃない。エスターってナルシスト。」
 そしてカラカラと笑った
「酔ってるの?」
「勿論、酔ってるわよ。」
『シラフだわ、この人・・・。』
 今度はキャシーがこめかみに手を遣った。
「ルー、なんか言ってよ。」
 キャシーは隅でただ黙っているルディーナに振った。だがルディーナは素っ気無く、
「状況が明後日の方に向いてて、私なんかは戸惑うばかりね。」
 まるで他人事だ。
「でも、エスターは此処に残るのかしら。」
 ルディーナの言葉にキャシーは一瞬言葉に詰まる。彼女は赤い前髪を掻き上げた。
「エスターが受けるとは思えないわ。あの子、現実的だし。それに歳の差だってあるし。」
「エスターって今何歳なの?」
「・・・三十六。」
「あら、キャシーよりずっと年上だったんだ。」
 驚いた様子も見せず、またレーラが嘴を挟む。
「余計な事言わないでよ。」
 キャシーは少し声を荒げた。ばつが悪くなって杯を呷るが、少し咳込む。
「見れば判るでしょう。人間にしたらまだ十七・八歳ってところよ。」
「じゃぁ、問題無いじゃない。ソフィア王女も見たところ花も恥らうお年頃。そういう心配は無さそうね。」
 レーラはキャシーを見る目を細くする。少しばかり意地悪い笑みだ。キャシーはぷいとそっぽを向いた。そして小さく呟いた。
「そう、今はね。」
 そんなキャシーの嘆息を、レーラもルディーナもさほど気には留めなかった。
 その頃、エスターはウェンデルディアの後について巨枝の上に敷かれた回廊を歩いて行った。巨樹の幹に設けられた建物と建物を繋ぐ枝の回廊は、自然の枝葉が壁の様に包み込み、さながら木の葉のトンネルだった。黄色く色づいた枝葉は向こうの巨樹の宴から漏れて来る明りを透かして金色に輝いていた。
「あれはクレシリスが禁を破り、森の北側へ出た時の事だ。そなたの母のクレシリスはカーレル・エルフィカイエスと名乗る魔法使いに出会った。かれこれ40年近く前になる。」
 ウェンデルディアは歩きながら言った。振り返れば、去った娘が残したエスターの姿。彼の心の中には複雑な想いが湧き上がっていた。
「クレシリスは此の宮にエルフィカイエスを連れて戻った。無論、それがいかな事か直ぐに判った。私はそれを止めようとしたが、しかし止められなんだ。エルフィカイエスは此の宮を出て行く時、クレシリスを連れて行きおった。クレシリスはこの森の国での安寧を捨て、外の世界の男を選んだ。何ゆえに心惹かれたかは未だに理解できんがな。」
「僕にも理解できません。」
 エスターは自分の耳に触れた。豊かとはいえ髪の下に隠れてしまう程度の小さな特徴である。しかし、それが示す事実は彼にとって酷く重いものだった。それ故に、彼にとってただ平穏なばかりの生活はある意味で理想だ。安定した古い王国の王女として生まれたクレシリスが、何故得がたい日常を捨てたのか理屈では想像出来ても、理解出来る筈も無かった。
 ウェンデルディアは足を止めると、幹のうねりにそって作られた建物群の一つの扉を開いた。中は真っ暗だった。
「灯を。」
 ウェンデルディアの求めに応じて、エスターは左手を軽く上げた。何も無い空間に青白い光球が現れ、淡い光を放ち始めた。先程宛がわれた彼のチュニックとフェーリアが明かりを受けて薄緑の光沢を放つ。促される儘にエスターは先に立って入っていった。特段何という事も無く進むエスターの様子を見て、ウェンデルディアはフムと頷くと後に続いた。
 女性の部屋であった。華麗なテーブルと椅子、大きな鏡台。棚の上には誰かの好みで統一された小物が置かれていた。レースの天蓋のついたベッドは整えられ、主の就寝を静かに待ってる。そこは昨日まで誰かが寛いでいた様な空気が漂っていた。
「誰の寝室です?」
「クレシリスが使っておった部屋だ。」
「お母様の?」
 エスターは鏡台の端に何気無く置かれた横笛を手に取った。埃を被った形跡も無く、長年放置されていたとはとても思えない。
「クレシリスが出て行ったあの日以来、封印により時は止まっておったのだが。」
「封印?」
 鏡台の前で振り返るエスターに姿に、ウェンデルディアの目にはかつての此の部屋の主の姿が重なっていた。ウェンデルディアは棚に伏せられていた立額を起こした。寂しそうな眼差しが細密画に向けられる。知らぬ人が見ればエスターと思う程に良く似た女性だった。そう、クレシリスである。
「レイディスよ、母は幸せであったか?」
 ウェンデルディアの問いにエスターは頷く事が出来なかった。ただ、否定したくない思いが答えを躊躇わせた。無論、その意味がウェンデルディアに判らぬ筈は無い。
「エルフィカイエスは如何したと言うのだ?」
「僕が幼い頃に死にました。」
 昔から用意されていた嘘の言葉がさらりと口をついた。
「・・・そうか、人間の命とは短いものよ。」
 ウェンデルディアは今度は気付く事も無く、小さく息を吐いた。
「やはり、力ずくでも止めるべきだった。」
 ウェンデルディアは立額を再び伏せた。
「クレシリスは我が妻が命と引き換えに残してくれた最愛の娘だ。エニシダの花のごとき金の髪、深緑を思わせる鮮やかな緑の瞳、それは美しく賢い娘だった。気軽な立場ゆえか天真爛漫な性格でな、誰からも愛された。愛さずにはおれなんだ。わしも贔屓と判っていたが目を掛けずにはおられなかった。それがいけなかったのやも知れん。あれは、己の思いのままを貫いた。わしの落ち度で失ったも同じだ。」
 ウェンデルディアは体を置く様にして椅子に座ると、手で目を覆い、頭を振った。
「此処に在るのは総てお前の母クレシリスが置いて行った物だ。レイディスよ、この部屋もエニシダの宮の名も総てそなたにやろう。」
「エステリアに残れと?」
 思いもかけぬ言葉にエスターは驚く。
「そなたは我が王家の血を引いておる。此の国に住むが自然であろう。」
「僕には、あなた方の言うミズンの忌まわしき血が混じっています。」
「さればこそだ。ミズンの中にあってアルンの血は重荷であった筈。」
 ウェンデルディアの言葉にエスターには旨い答えが浮かばなかった。誰も来る人とて無い山奥の家、ただ母との絆のみを頼りに過ごした日々が浮かび、消える。エスターにとって母の血が唯一の拠り所だったとしても、それが誇りであったなどとどうして言えよう。彼はただ、
「否定しません。」
 そう答えるしかなかった。
「さればこの申し出、そなたにとって悪い話ではあるまい。」
 ウェンデルディアは小さく頷いた。
「どうしてそこまでしてくださるのです?」
「そなたが我が一族の血を引いておるからと言うだけでは納得できぬか?」
「そう言う訳では・・・。」
「そなたはアルンの血を引く。そうである以上、その貴き血をみすみすミズンの世界で散らさせる訳には行かぬ。無論の事だ。だが、最愛の娘の子が、今こうして此処に戻って来ておると言うのに、また再び失いたくないと言う想いも有る。クレシリスの居た頃をそなたに手を伸べる事で取り戻したいなどと、愚かな事と思うか?されど、胸の中には幾つもの違う心が住み着いておる。時に、それを持て余す事とてあろうよ。」
 何を思うか、微かに天を仰ぎ目は閉じられていた。
 エスターはしばしそれを見つめていたが、
「それも僕には判りません。」
 そう応えるしかなかった。
「よい。個々の想いの違いで言い合っても詮無き事。」
 ウェンデルディアはおもむろに立ち上がる。
「いずれは都にも居を用意させよう。とりあえず、今日は此の部屋で休むが良い。」
 ウェンデルディアはそう言い残すと、部屋を出て行った。それは涌き上がる自分の感情を見せまいとしているかに見えた。
 エスターは鏡を見た。そこでは在りし日の母の姿が見詰め返していた。白い指で横髪をたくし上げれば、露になる少し尖った耳。彼はベッドの端に腰掛けた。微かに母の懐かしい匂いがする気がした。
「安寧・・・か。所詮は夢だ。」
 エスターの呟きがウェンデルディアの耳に届こう筈は無い。ウェンデルディアは回廊を行くが、宮殿が見渡せる処まで来ると、ふと立ち止まり目を閉じた。そこに浮かぶは愛娘と此の離宮で過ごした幸福な日々。突然訪れた別れ。それは裏切りと同じものであったかもしれない。涌き上がる悲しみと、怒り。有るがままには受け入れがたい、憎むべきものと、愛おしむべきものが一人の中に同居する現実。
「《お爺様。》」
 声がした。ウェンデルディアは目を開いた。祖父が来るのを待っていたのであろう、ソフィエーリアが立っていた。
「《如何でございましたか?》」
 ソフィエーリアの少し心配げな表情に、ウェンデルディアは憂いを感じながら向き直った。
「《確かに、そなたが目を掛けるのも判る。あれほど濃いアルンの血は今や王家の中にも珍しくなった。あの部屋の結界ですら全く意に介さなんだ。》」
「《あれを・・・。》」
 ソフィエーリアは驚きの表情を浮かべた。
「《森の外縁のそれも、離宮周辺のそれも、役に立たぬのも当然よのぅ。しかし、その力にあれは気付いておらんし、その正体も判ってはおらん。ミズンの血が阻むのであろう。恐らくこの先も永遠に理解できまいて。》」 
「《しかし、そればかりが才能でもありませんでしょう。》」
「《そうよな。精霊を操る力はなかなかのものだ。》」
 ウェンデルディアは頷いた。が、
「《一般の者達に比べればな。》」
 と付け加えた。
「《意図して操れるのは手遊び程度であろう。》」
 ウェンデルディアは掌を翳した。幾つもの淡い光が舞い上がり、色とりどりの光が瞬いた。それらは飛び散り、枝葉を照らし踊る。宮殿の隅々まで明るく照らし出すも、しかし、閉じられた掌と共に一瞬で消えた。
「《この儘ミズンの内にあっても恐れる事態にはなるまい。》」
「《では迎え入れては下さらないのですか?》」
「《安心いたせ。されどもクレシリスの忘れ形見。故などなくとも、例えミズンの血が流れていようと、どうして外界に捨て置けよう。》」
 祖父の言葉にソフィエーリアの表情が和らぐ。だが、
「《しかしレイディスの血を残すは許さぬ。そなたは我が王家の希望だ。時始めからの血を繋いで行く使命がある。あれに心を奪われてはくれるな。》」
 その言葉に、ソフィエーリアの顔から心が引く。ただ、張り付いた微笑みを浮かべているしかなかった。

 森には霧が立ち込めていた。キャシーは笛の音を聞いた。低いくすんだ音色は哀調を帯びて辺りに漂い、霧に紛れて消えて行く。聞き覚えがあった。父を亡くして途方にくれた子供の時、幾度となく慰めてくれた横笛の音だった。
『そう言えば、何時から聞かなくなったんだろう。』
 これも時の流れで片付けられてしまうのだろうか。キャシーは窓辺に座り、何も見えない霧の森を見詰めて、ただ笛の音に耳を傾けた。が、ふと笛の音が途切れた。
 クレシリスの部屋のバルコニーで、エスターは唇から横笛を離した。気配を感じて振り返れば、ソフィエーリアが扉の前に居た。エスターは不意の訪問者に戸惑うが、ソフィエーリアは気にする様子も無く中に入って来た。
「お邪魔して申し訳ありません。どうぞお続けください。」
「無理だよ。僕は人前で聞かせられる程上手じゃない。」
「静かな森です。宮殿の何処からでも聞こえましてよ。」
 ソフィエーリアはにこりと微笑んだ。彼女は手すりに手を置き、頬を掻くエスターと向かい合う様にバルコニーに座った。薄紫の瞳がエスターの瞳をじっと見詰める。
「ウェンデルディア様からエニシダの宮の名を許されたよ。君の口添えかい?」
「生憎、わたくしの意見などでは何も決められません。」
 ソフィエーリアは首を振った。
「それに御母様の名なれば受け継いで当然でございましょう。」
「でも僕は母じゃない。混じった半分の血の意味は身に染みて判っている。」
「些細な事です。」
「あなたはそう言っても、エステリス家には些細な事ではないだろう。」
 ソフィエーリアは言葉を詰まらせた。
「此処からイル谷は遠いのかい?」
 エスターの突然の質問にソフィエーリアは困惑の表情を浮かべた。
「行ってしまわれるのですか?」
「僕は此の森で一生を終えられるなんて夢見たりは出来ないんだよ。」
「そんな、夢だなど・・・。」
「あなたの温情も、お爺様の想いも言わば個人的なものだ。エステリアの意思じゃない。」
 ソフィエーリアは目を伏せしばし沈黙した。が、思い切った様に口を開いた。
「レイディス様、わたくしとあなたはとても近い気がするのです。」
「従兄弟だもの、近く感じても不思議じゃないさ。」
「いえ、そうではありません。感覚的なものなのですが・・・。何故でしょうか、想いが旨く言葉に出来ません。」
 ソフィエーリアの頬に高揚が滲む。エスターはどきりとして微かに身を反らした。手すりに置かれたソフィエーリアの指がエスターのそれに触れた。エスターの指が微かに動く。ソフィエーリアの指がためらいながらなぞる。心を残しながら逃げる指と、縋る指。一瞬躊躇したエスターの掌が突然相手を握り締めた。微かな驚きと堰を切る熱情。掌と掌が向かい合い、白い指と指が絡む。それは魔法である。エスターの唇がソフィエーリアの唇に触れた。長い、長い、一瞬の出来事。
 笛がコトリと音を発てて落ちた。エスターは我に返り、顔を離す。
「・・・ごめん。」
「謝る事などありませんのに・・・。」
 ソフィエーリアは頬を染め俯いた。
「あの事を気にしているのならもう気にしないで。死を告げる悪霊が相手ならあの位で丁度良い。」
「違うのです。」
 ソフィエーリアは繋いだままの掌に力を込めた。
「わたくしは、初めてあなたを見た時、自分自身を見た気がしたのです。鏡を見た時のそれとは違います。あなたがわたくしであり、わたくしはあなたであるように思えたのです。その時はただの恐れとしか思いませんでした。ですが、今となればわかります。わたくしの半分は既にあなたであり、あなたの半分にわたくしはなりたいのです。」
 ソフィエーリアの告白にエスターは戸惑った。彼の脳裏に母の姿が浮かぶ。寂しさと、悲しみと、そして憎しみをない交ぜにした瞳で彼を見返していた。その瞳が静かに閉じられる。そして再び開く事は無かった。エスターはソフィエーリアの手を解いた。
「僕の初恋の人が『クレシリス』だと言ったら、君は笑うかい?」
 エスターの言葉には自嘲が混じっていた。ソフィエーリアはしばし沈黙する。が、顔を上げてエスターの目を見た。
「男の方とは大なり小なりそういうものだと思います。わたくしがクレシリス御姉様と瓜二つなのは自覚しています。あなたがわたくしにお母様の影を見たとして、不満を述べる積りはありません。」
 ソフィエーリアの静かな言葉の一つ一つが強い波となってエスターを打つ。エスターは彼女の凛とした瞳に耐え切れずに目を背けた。
「そういう関係は互いに辛いだけだ。」
 エスターは窓辺から腰を上げた。
「レイディス様、一つお聞きしてもよろしいでしょうか。」
「何を?」
「あの時、あなたは天罰と言いましたね。あれはどう言う意味だったのですか?」
 ソフィエーリアに言葉にエスターは答えなかった。ただ、逃げる為に背を向けた。
「姫様、もう戻った方が良い。余り長居すると付人達が心配する。ウェンデルディア様だって心中穏やかじゃない筈だ。」
 ソフィエーリアは黙って立ち上がった。彼女は自らのアリスバンドを外した。純金の前髪が微かに乱れて顔に掛る。彼女は目を潤ませてエスターに触れた。
「ソフィエーリア・・・。」
「初めて名を呼んでくださいましたね。」
 ソフィエーリアは赤いアリスバンドをエスターの髪に留めた。横髪が流れて耳が現れる。
「レイディス様、アルンである事に誇りをお持ちください。」
 彼女はエスターの耳にそっと触れ、肩に頬を寄せた。そして指先に名残を滲ませながらゆっくりと離れ、扉の向こうに消えて行った。
 エスターは閉じた扉を暫く見詰めていた。が、ふと、床に落ちた笛を拾い、伏せられた立額の傍に置いた。
 『ウィンザリア』アルン語で大規模な離宮を意味する。この壮大な樹上宮殿ですら彼等アルンのつかの間の楽しみの為だけに造られた物でしかない。クレシリスも昔、この宮殿で余暇を過ごしたのだろう。そして此処が人間の地の近くにあった為に彼女は人生の転換を迎えた。安寧な生活を捨て、自身の想いに従った。それが必ずしも良い事だったなどと、エスターには思えない。自分がその立場であったなら、決して同じ道は歩まなかったろうから。しかし、
『お母様と僕では立場が違う。』
 例えエステリス家に迎えられたからと言って、それが平穏をもたらすとは思えなかった。
 エスターは部屋を出た。枝の回廊から見える広間の灯りは既に消えていた。彼はキャシー達の部屋に向かった。
「一体どうなってるのよ。」
 扉にエスターの姿を見つけるなり、キャシーは目を吊り上げた。
「後で説明するよ。」
 エスターはそんなキャシーを宥め賺す。彼女なりに心配した上で出た言葉であろう事は分かっていた。彼はテーブルに広がる地図に気付くと、ルディーナを見た。
「明日、夜明け前に出よう。」
「また随分と忙しない事ね。まあ、道は確認出来たし、もとより長居する気も無いけど。」
 ルディーナは地図を丸めた。
「でもソフィア王女はどうするの?随分気に入られてたみたいだけど。」
 ルディーナは澄ました顔で後ろ髪を払う。
『嫌な言い方だ。』
 エスターは舌を打つ。
「どうするも何も、彼等が混血である僕を認める筈無いじゃないか。お母様から何も聞いてない訳じゃない。ハイ・エルフがどれだけその血統にプライドを持っているかを考えれば、あの中で僕なんかがまともに暮らせる訳がない。迎えてはくれるだろうさ。でもそれは種族の血を外に出させない為だ。僕の中の人間の血を受け入れてくれる訳じゃない。」
「重たい台詞を随分あっさりと言うのね。」
「事実だからさ。それに、今此処にいるのは単なる偶然であって、目的の結果じゃない。」
「確かに、前金の分位は働いてもらわないと示しがつかないわね。」 
 ルディーナは何かを見透かした様に口元に笑みを浮かべた。

 朝霧が白いレースを揺らす。夢から覚めた鳥達の囀りに誘われる様に扉が開き、中年の女官が部屋に入って来た。
「《おはようございます。ご起床のお時間でございます。》」
 アラナ侍従長は返事の無い事を訝しがりながらベッドの天蓋をそっと除けた。何時もであれば既に半身を起こして待っている王女が、しかし今日に限って羽布団の中に首まですっぽりと包まっている。
「《お姫様、お疲れとは存じますが、そろそろご起床あそばしませ。》」
 それでも返事が無い事に、アラナの顔色が変わった。
「《姫様、如何なされましたか、ご気分が優れませぬのですか?》」
 彼女は慌てながらも一礼して、布団の中を確認する。そして現れた人物に色を失った。
「《お前は、シャリーではありませんか。何故に姫様の御床にそなたがいるのです!》」
「《ひ、姫様に厳命され、逆らえませず。申し訳ございません。》」
 シャリーは半ばべそをかきながら起き上がった。
「《何たる事・・・。》」
 まさかに王女の戯れかと額に手を遣るが、その時廊下の向こうから取り乱した声が聞こえて来た。
「《レイディス様の姿が見当たりません。》」
「《伴の方々の部屋ももぬけの殻です。》」
「《アラナ様、藤の宮殿下が馬を数頭連れ出したよし。》」
「《そ、そは一体・・・。》」
 アラナは声を震わせた。何か行動を起こさねばとしきりに体の向きばかり変えるが、結局どうする事も思いつかずにその場でおたおたするしかなかった。そこに慌てふためいた侍女が走りこんで来て、封筒を差し出す。
「《馬番の者が、これを預かったと申しております。》」
「《手紙ですと?何故、お止めしなかったのじゃ。》」
 アラナはそう叫びながら震える手で封を開いた。そして現れた便箋に目を通して、その儘気を失って倒れた。
「《アラナ様、お気を確かに。》」
 女官達が駆け寄る。
「《何があったのだ!》」
 エーベルハルトが止める女官達を押し退けて来た。彼は侍従長の手から便箋を取るとワナワナと肩を震わせ
「《レイディス殿は一体何のお積りか!》」
 怒声を上げた。
「《どだい信用するのが間違っているのだ。ミズンの血を引いた者など。》」
 彼は踵を返すと、衛兵に召集を掛けた。
「《草の根分けても探し出せ。殿下に何か有らば我等一同陛下に顔向け出来んぞ。》」
「《姫様ー!》」
 宮殿のあちこちから悲鳴にも似た声が上がっていた。
 そんな宮殿中の混乱の中、物見の上で一人静かに佇む老人の姿があった。
「《ソフィエーリアよ、あれ程に願ってもなお、そなたは外の世界を選ぶのか。クレシリスの様に・・・。》」
 眼下に慌てふためく衛兵が飛び出して行くのが見えた。ウェンデルディアは遠く森を睨み付けた。樹下に立ち込める霧が微かな風にうねる。彼は杖を持つ片手を上げ、しかし苦渋の表情を浮べ何もせぬままに下ろした。
「《無駄な事よな・・・。ソフィエーリアが相手では千人の追っ手を出そうと足跡一つ見つけらぬ。いや、もし万が一見つけようものなら怪我人では済まぬ。あれが本気になれば衛兵などでは指一本触れるも適うまいて。》」
 ウェンデルディアはいまいましげに森に向けて杖を投げ捨てた。一瞬、森がざわめき、その後嘘の様に静まり返った。
「《レイディス、我が一族の宝を唯でくれてやろうと言うのだ、大切にせい。》」
 ウェンデルディアの体が柱に凭れる様に崩れ込んだ。
「《エルフィカイエス、そなたの忌まわしき血はまたしてもわしから大切なものを奪って行きおるか。》」
 寂しげに丸まった背中が小さく震えていた。
 森の霧はますますその密度を濃くしていった。
 ルディーナは足を止めた。真夜中に離宮を発って既にかなりの時間が過ぎていた。レーラが指し示す結界が自ら開いて行く怪に訝しがりながら、しかしその事で既に相当な距離を進んでいる事は十分に判った。もはやイル谷は目と鼻の先だろう。だが此処に来ての濃霧に彼女は戸惑った。方向を見失えばまた迷う事になる。
「まず大丈夫だとは思うけど。」 
 ルディーナは木の根元に荷物を置いて腰を下ろし、エスターを見遣った。エスターが普通でないのはうすうす感じてはいた。彼女自身、拘りは持ち合わせていない積りだった。だが、エルフの血を引くとなればまた別だ。本人が隠したがった事実を知ると言う事がどんな事象をもたらすのか、予想が付く筈も無い。これまで通り仲間として接する事が出来るか、自信は無かった。
「お付き合いで逃げ出す身になろうとはね。それにしても馬を諦めたは痛かったわ。」
 レーラは何時もと変わらず毒舌だった。が、彼女の意見はもっともだった。宮をこっそり抜け出したのだから預けていた馬を持ち出せる筈も無い。そして馬が無いという事は、これからの行程がかなり不便なものになると言う事だ。
「悪かったよ。」
 凹むエスター。
「まあ、股擦れが靴擦れに変わるだけか。」
「だから、ごめんって・・・。」
「そのアリスバンド、ソフィア王女のよね。」
「しつこいなぁ。」
「ごめんなさい、言い過ぎたわ。でもイル谷に入ったら私の馬位は買ってちょうだいね。」
 エスターが憮然として黙り込むと、レーラはニヤニヤしながら瓶を開けた。
「あら、それ、あの時のお酒?」
 キャシーが覗き込む。
「給仕のお兄さんがくれたのよ。飛び切りのワインよ。」
 「どうせ無理に持って来させたんでしょう。」
 宴席の時の給仕の顔が目に浮かぶ。あの様子では秘蔵の美酒をそんな気前良くくれるとも思えない。
「エスターもどう?」
「いらない。」
「美味しいのに。」
「そういう気分じゃないから。」
 エスターは荷物を枕に寝転がって向こうを向いてしまった。そんなエスターにショールを掛けてやるキャシー。レーラはキャシーに杯を渡した。
「どう思う?」
「どう思うって・・・そのままでしょう。」
 キャシーは杯を一気に飲み干し、空になった杯を軽く振る。レーラに注ぎ足してもらってまた口を付けた。
「エスターって素直じゃないから駄目なのよ。もっとも、素直に育てる環境でもなかったけど。」
「それはあなたも同じでしょう?」
 ルディーナに言われて、キャシーの杯が止まる。
「エスターの事、黙ってて悪かったわ。でも、言う必要あった?」
「確かに無いわね。こういう面倒は想定してなかったから。」
 ルディーナの台詞を遮る様にレーラが杯を渡す。
「そのエスターがいたから光の森の結界を抜けられたのよ。」
「そうね。」
 ルディーナは空を見上げた。濃霧は暫く晴れそうも無い。
「あなた達も少し横になると良いわ。」
 ルディーナはターナンクライトの裾を引っ張った。冬は近い。朝霧は流石に冷たかった。

「本当にアルンなの?」
 夢の中でルディーナが問い掛けていた。目には明らかに疑念が浮かんでいた。己の素性を隠すエルフも、しかし決して己がエルフである事は隠さない。それはエルフに限らず、種族の誇りそのものに根ざす意識故だ。なのに、自分はそれを隠していた。隠さざるを得なかった。
 種族と種族を隔てる壁は余りに高い。ルディーナを見て、ソフィエーリアを見て、エスターは寂しさを感じずには居られない。どちらも純粋だった。だが自分はそうではなかった。越えてはならない壁の上に居るという想いが湧き上がるのを打ち消し、しかし消しても直ぐに湧き上がって来た。人間の世界に居る時は髪で耳を隠し、夢の中では人間の血を否定する。人間の間では姓の略称を名前として使い、しかし本当の名を捨ててしまえる程に未練も断てず姓の振りをして残している。そうせねばならなかった立場に苛立ち、そうさせた世界を嫌った。時に壁を越えて手を差し伸べようとしてくれる人もいた。だが、それが不確かなものである事は判っていた。縋ろうとしても、いずれ消えてしまうなら、始めから無い方が良い。彼は自らも壁を造った。そうしてしまう自分、そうせずにいられなかった己。彼は自分にすら失望するしかなかった。
 エスターは目を開いた。それ以前は確かに眠っていた。だが目覚めはそれを否定するかの様に唐突だった。眠り自体ほんの僅かな時間だったのだろう。霧はいくらか薄らいだものの、森の先は未だ見えない。周りを見れば皆寝息を発てていた。彼は立ち上がると霧の中を歩き出した。はっきりとした理由など無い。小川のせせらぎが微かに聞こえた。随分と遠くだ。エスターはその方向へ行こうとして、しかし足を止めた。先の出来事が頭を過ぎった。
「まさかね。」
 エスターは自嘲し、踵を返した。霧の向こうに人の影がうっすらと見えた。ルディーナが探しにでも来たかとエスターは目を凝らす。霧が開き人影がはっきりと形をとる。
 ソフィエーリアだった。
「何故・・・。」
「レイディス様、黙って行かれるとは礼を失しておりましょう。わたくしとてエステリアの王女としての立場があるのです。この様な形であなたが旅立つとなれば、お爺様に申し訳が立ちません。お戻りくださいませ。」
「今更だ。此処に僕の居場所は無い。」
「お戻りいただけないとあれば、わたくしにも覚悟があります。」
「覚悟?」
 ソフィエーリアは剣を抜いた。細いミスリルの刀身が鈍く輝き、彼女は走り出した。剣が狙いを定める。寸分の狂いも無くエスターの左胸中寄りに。
 一瞬の空白。
 音も何も消えたかの様。ただ白いばかりのフィンディニアには細い華麗なる剣が宙に待っていた。エスターの左手には剣が握られ、大きく横を指していた。しかしソフィエーリアは構わずにエスターの胸に飛び込んだ。エスターが支えきれずに倒れそうになるのを森の巨木が力強く支える。ソフィエーリアの剣が遥か向こうの地面に突き刺さった。
「お願いです。わたくしをお連れくださいませ。」
 ソフィエーリアの言葉にエスターは耳を疑った。
「ば、馬鹿な。エステリアはどうするんだ。」
「宮など捨ててまいりました。王位も何も要りません。わたくしは今ここで死んだのです。今此処にいるのはエステリアの王女ではありません。ただの我侭な娘です。」
 ソフィエーリアの肩が小刻みに震える。エスターは予想外の出来事の連続に眩暈を覚えた。
「君には家族だって居るだろうに。」
「わたくしがお嫌いですか?」
「そ、そんな事・・・。」
 エスターは否定できなかった。彼のソフィエーリアへの感情を言葉にするなら、それはまさしく恋慕と言って良い。だが、彼女に重なる母の面影はあまりにも重すぎる。エスターは声を搾り出した。
「でも君は・・・。」
「乗り越えてくださいませ。」
 ソフィエーリアはその言葉を遮った。彼女はエスターの胸に当てた掌の爪を立てる。
「お母様の存在があなたとわたくしを遮ると言うのなら、どうかその壁を乗り越えてくださいませ。」
「どうして君はそこまで・・・。」
「あなたはわたくしに体の半分を捨てろとおっしゃるのですか?」
 彼女はエスターの肩に顔を埋めて泣き出した。
「わたくしは、わたくしは・・・。」
 ソフィエーリアの言葉はもう小さすぎて聞こえない。エスターの胸に縋る女性は帰る場所を無くした傷ついた小鳥だ。
「ごめん。」
 そうとしか言ってやれなかった。彼はソフィエーリアの背中に手を回し、優しく抱きしめた。そして自分の唇を彼女の唇に重ねた。彼女を守らねばと思った。しかしそれには、自分の腕は余りにも細く、弱々しく思えた。
 森の中を何時までも霧が漂っていた。辺りは風すらも無く静まり返る。向こう側には何も見えない。
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