26 リール・クロウス
カービスから街道を東へと向かうと、やがて木々の間に間に、山並みと言うには余りに平坦な稜線が見えてくる。レネダリア高原である。正確にはレネ(楓)ダリア(高原)なのだが、今では使われる事の無い古の言葉であり、またそれがシャノン・アルスターを三分した一つの地域を指す言葉として定着したが為にレネダリアのみでは高原としての意味が伝わらなくなって久しい。
眼前には屏風の様に断崖が延々と続く。それは傾斜の比喩ではなく、正に『断』崖である。まだ森の木々に隠れてはいるが、その麓から望めば実感出来るであろう。カービスの平地から突然聳える断崖は、数百ヤードの間まるで足がかり無しの絶壁だ。それでも以前は幾つもの桟道が施され人の往来も少なからず有ったが、エルン争乱の際に防衛を理由とした破却が進み、今では唯一残された『ニーダーティクトの階段』と呼ばれる登山道のみが此の地と高原を繋いでいる。
自然、交易の手段を削がれたリールの商人達は衰退した。そんな中にあって唯一、フィルツェ家だけがその力を増大せしめたのは、ニーダーティクトの領主ベネティクト家との関係をいち早く構築、独占し得たからに他ならない。フィルツェ家の当主マラーンはベネティクト家から登山道の占有的通商権を獲得するや、商売敵となる他の商家の通行の一切をいきなり排除した。唯でさえも細っていた通商を突然遮断された他家の窮状は想像に安い。普通なら反発を恐れて急激な締め付けは避けそうなものだが、そこに一切の手心は無く、相手に対し破綻するか傘下に下るか以外の選択を持たせなかったのである。無論、それには口には出せぬ裏組織の存在も大きかったのだが、何れにせよ今ではリールの町はほぼフィルツェ家の手中に有り、その外港都市であったカービスの船主ギルドも侵食されつつあった。
「命を狙われるかもしれねえってのに、いい気なもんだ。」
太陽は真上、真っ昼間の晴天の下、キリー、グレン、セレネスとイレイアはリールの門を潜った。門番はキリーの姿を見つけるや目を剥いて驚くが、流石にキリーを相手に自らどうこうしようと言う勇気は無い様で、応援を求めて慌てて街の奥へと走って行った。それを見送るキリーの叩く軽口たるや、一体誰に向かって言っているのか疑いたくなる様な台詞である。彼は町の人々の視線をあしらいながら東外れへと歩を進めると、おっとり刀で駆け付けては来たものの及び腰の衛兵を尻目に、酷く荒れた路地へと入り込んだ。
リールの東の外れはフィルツェ家と言う僭主の牛耳る町に在って、その権勢の及ばない唯一の区域である。フィルツェ家による富の独占は苛烈であり、自然と言うか当然と言うか、反発も大きかった。無論、フィルツェ家になびかぬと言う事は政治的経済的に不利益を被ると言う事で、多くの人々がその権勢の前に口を閉ざした。しかし居場所を失いながら、それでも尚服従しない者達も少なからずいたのだ。そんな者達が追い詰められ押し込められる様にして自然と集まったスラムであるが故に、治安の悪さも相俟ってフィルツェ家であってすら迂闊には手出し出来ぬ一角となっていた。つまり此処まで来てしまえばキリーだろうがお尋ね者だろうが大手を振って歩ける訳だが、それを良い事にキリーは、躊躇して足を止める衛兵に投げキッスなどしてとことんふざけた態度である。
「確かに此処ならフィルツェ家も手は出して来んだろうが、こんな廃屋通り、人の住む所ではないな。」
グレンは遠慮無しに口にする。
「この様な所に身を寄せる位なら、始めから見張りの居る門など通らなくとも良さそうなものですね。」
流石のセレネスも同調して零すが、
「裏口からコソコソってのは性に合わなくてな。ま、歓迎はしてくれんだろうから大通りの宿でふんぞり返る積りは無いが、来たからには挨拶だけはしとかにゃぁな。」
キリーはからからと笑う。すると声を聞きつけてか、辺りから如何にもそれらしき風貌の男達が顔を覗かせるが、キリーの姿を見つけるや、表情が変わる。中には血相を変える者、中には愛想笑いを浮かべる者もいるが、皆共通して逃げる様に引っ込んでしまう。
「随分と顔を売っとる様だな。」
グレンが言う。
「言うなよ、照れるじゃねえか。」
「褒めとらんわ。」
キリーはてんで何処吹く風だ。そしてとある薄汚れた壁の家の前で立ち止った。扉の上には烏を模った青銅の看板と、幾重にも掛った蜘蛛の巣。彼は扉の隣の何も無い壁を強く叩いた。
「ヴィスキー!開けろ、ヴィスキー!聞こえねえのか?ヴィスキー!!」
分厚い壁に重く大きな音が響く。まるで今にもぶち抜かんがばかりの勢いだ。すると壁の向こうで何かが階段を転げ落ちる様な音がして、暫くの沈黙の後、扉・・・ではなく『壁』が無造作に開かれた。
「やかましわ、ぼげぇ。朝っぱらから騒ぐんじゃねぇ。」
現れた男は頭の膨らみを抑えながら怒鳴った。いや、既に正午である。寝ぼけ眼の男はそこにキリーを見つけるや、
「何だよ、キリーかよ。人騒がせな・・・。」
と舌打ちして直ぐ様『壁』を閉めにかかる。キリーは咄嗟に剣の鞘を挟んで遮った。
「まだ要件が済んでねえだろ。ヴィスキーの奴を呼んでくれや。」
すると男はぶらぶらと手を振った。
「兄貴なら居ねえよ。」
「何処へ行った?」
「こっちが聞きてーよ。カールンの狸親爺の一年分の上がり掻っ攫って以来、山に行ったか海に消えたか、一切音沙汰無しだ。」
「まさか殺られたんじゃねーだろうな。」
キリーは顔を顰める。
「だったらフィルツェの奴らが嬉々として触れ回ってるわぁな。」
男は面倒臭そうに吐き捨てたが、キリーの後ろにグレンとセレネス、イレイアの姿を見付けるや、
「あ、客か。なら入ってくれ。」
ころっと態度を変えて誘う。キリーは三人を指で招くと扉を潜った。
「せめて覗き窓位使ったらどうだ?無用心だろ。」
男が引っ込んだ奥で水を使う音がする。暫くして顔を拭きながら出てきた男は予想以上に若かった。どう見ても二十歳そこそこである。しかしそれが口を開けばキリーに対してまるで遠慮無し。四十を超えた中年の様な態度だ。
「フィルツェんとこの間抜けだったら『扉』を開けようとするだろ。」
「無理やり開けると串刺しが出来上がる仕掛けか。」
グレンが言うと、
「良く判ってんなぁ、ドワーフの親爺。」
グレンの肩をバンバン叩いて何やら嬉しそうだ。彼は戸棚を開くとボトルとグラス、何かの肉の干物の皿を取り出してテーブルに並べ、勧めた。
「俺はサイファ・セトラってんだ。ヴィスキーの兄貴の代わりにリール・クロウスを預かってる。」
「リール・クロウスと言うのは?」
イレイアは訝しげに尋ねる。すると逆にサイファと名乗った男も怪訝な表情を浮かべた。
「って、あんた、此処が花屋にでも見えるか?特殊技能業に決まってんだろうが。」
「特殊技能業?」
「まぁ、何だ。ちょいとな。」
と言って人差し指で鈎を作る。つまり、盗賊団と言う訳だ。予想外の返答に目を丸くするイレイア。セレネスもグレンも呆れ顔だ。しかしそんな三人にどうこうするでもなく、サイファは続けた。
「で、用事ってのは兄貴にか?それともリール・クロウスにか?」
「その両方だ。」
キリーは席に座ると、干物を一つ取って口に放り込む。そしてボトルを開けてグラスに注ぎ、セレネスとイレイアにも渡した。グレンにはグラスの代わりに干物を皿ごと渡す。
「フィルツェと一悶着有ってな、カービスの親爺の身が危ねえ。」
「何やらかしたんだい。」
サイファは身を乗り出し、下唇をちょいと舐めた。キリーは事情を話し始める。その間にグレンが一旦席を外し、暫くして戻って来ると、サイファは両手を叩いて笑っていた。
「成程ねぇ。奴等の尻尾を掴んだおかげで却って窮地に陥ったと。」
フィルツェ家と長年遣り合って来ただけに今更驚きも無いのだろう。
「でもよ、だとすれば少なくとも表立っては何もして来ねえだろう。」
「表から来るってなら心配しねえよ。裏から来る方が余程危険だ。」
「それもそうだな。ま、今日中にラシュネスとブランドラーを向けとくわ。しかしヴィスキーの兄貴が居ない時で良かったな。」
サイファはニヤニヤして言う。
「野郎の説得が一番の課題だったからな。」
キリーは天井を見上げた。
「だがたった二人で大丈夫なのか?」
「うちでも屈指の手練れ二人だぜ?それによ、こっちもちいっとばかし手薄なんだよ。」
サイファはまた指で鈎を作る。何を企んでいるのかは一目瞭然だ。
「フィルツェを相手によくやるよなぁ。で、手薄なところを悪いんだが、もう一つあってな。」
「あん?」
サイファは猫の様に目を細めた。
『地下迷宮』、レネダリア高原外縁の絶壁の側面に、何時、誰によって、何故に作られたのかも判らない巨大な地下構造である。嘗ての鉱山跡をドワーフが棲家として拡張したのだと言う者も居るが、涸れた鉱山ならドワーフが住み続ける筈は無いし、そもそも洞は常に直線的に伸び、多層構造にこそなってはいるが傾斜は全くと言って良い程に無い。つまり鉱脈を辿った跡が無いのだ。出口からやや遠退いた辺りには、掘り出された岩なのであろう瓦礫のぼた山を至る所に見付る事が出来るものの、鉱石は荒く『神々の忘れ物』を採集した形跡も無い。しかもどの道を辿ってもあえて同じ様に作ったとしか思えない形状で実に紛らわしく、慣れぬ者が足を踏み込めば五分もしないうちに道に迷う事請け合いだ。
しかも、他の洞窟遺跡の殆どがそうである様に、打ち捨てられた洞内にはコボルトやらオークやらの人外が巣を食っていると言う。古くには近くの町や集落が襲われる等の被害が度々あったらしい。故に魔物達が長年の間に略奪した宝物が溜め込まれている等とも言われるが、一攫千金を目論んだ者達は総て痛い目に合っただけで何一つとして収穫は無く、足を踏み入れた儘に戻らなかった者も少なくない。今では洞に入って直ぐに厳重な封印が施されており、結局そんなお宝話も昔々のおとぎ話程度のものとして残るのみで、そこに至る道も荒れ果て、来る者とて無い。
「で、我々はオークの財宝でも掠め取ろうと言うのか?」
ルデルが皮肉を込めた口調で言う。ルディーナは何時もの鉄面皮で一瞥もしない。彼女は道を遮る雑木の折れた小枝に一瞬目を留めるが、その儘に歩いた。
迷宮の入り口には先発したセレネス達の姿はまだなかった。リールに寄って手筈を整えるべく随分前に出発した筈なのだが、予定より手間取っているのだろうか。ルディーナは一旦辺りを見回したが、すぐ洞内に歩を進める。
「グレン達を待たないのかい?」
エスターは言う。顔ぶれはルディーナ、ルデル、キャシー、エスターとソフィエーリアの五人である。これだけでもそこそこの人数だが、『地下迷宮』を探索しようと言うなら数は多い方が良い。
「行けても私達だけでは封印迄でしょう。だったら、どんな状態なのかだけでも確認しておきたいわ。」
外が明る過ぎるからだろう、巨大な洞の中は斜めに切り取られた漆黒の闇だ。奥へと歩を進めれば、足元には吹き込んで積もった木の葉やら小枝やらが纏わり付き、澱む空気はカビ臭い。ただ、何処からか大量の水の流れる音が、小さいが確かに響いて来る。ソフィエーリアが手を翳し光の精霊を呼び寄せた。光球がポツリポツリとおぼろげな灯りを燈して奥へと誘う。暫くするとガルフ山地で見たドワーフの鉱山街にも匹敵するであろう構造物が現れた。それを更に進んで行くと、直ぐに壁に突き当たる。例の封印だ。どうやって此処まで運んだものか、巨大な一枚岩が立ちはだかっていた。
「封印と言うより、扉って感じだね。元から在った物なんじゃないの?」
エスターは石扉を見上げた。確かに、後から造るには大掛かりに過ぎる。
「これ、魔法で開けられない?」
キャシーはルデルに目を向ける。するとルデルも頷いた。
「扉なら開くのが本分だな。試してみるか。」
ルデルは右手を差し出して石壁に触れた。二三の呪文を呟くと手の先が微かに光る。しかしエスターはやんわりと止めた。
「グレンが来るまで手出ししない方が良いと思うよ。」
「突き破ろうと言うのではない。押し開いてみるだけだが?」
「これは機構だろう?何処がどう咬み合っているか知れたもんじゃない。無理をすれば洞そのものが崩落するかもね。」
道理だ。崩落するかはともかく、力学を無視した魔法の力では仕掛けを破壊する可能性は十分に有る。ルデルは舌打ちしたが手を引っ込めた。
「じゃぁグレンが来る迄は待ちぼうけ?大体よ、こんな所に一体何の用が有るのよ?」
キャシーはルディーナを見遣る。
「遺跡見物じゃないの?」
エスターに茶化されてキャシーは不満げに腕を組み、しかし収まらずにエスターの頭を引っ叩いた。
そのルディーナはと言えば、石扉をじっと見ていたが、
「誰かが通った跡が有る。」
そう呟いて石壁の角をなぞった。一見長年放置されていたかの様に見えるが、繋ぎ目の付着物に細かい摩り傷がある。開閉の際に付いたのであろう。しかも極最近付いた傷だ。
「まさか、いや、しかし・・・。」
ルデルとキャシーも石壁の傷を覗き込む。
「一体何の積り?」
この先にあるのは意図すら判らない大迷宮だ。魔窟になっているならば踏み込むには命の危険も大きい。まさかに本気でオークの宝探しだなどと言う積りも有るまい。
「さて、私は『誰か』ではないから目的が何なのかなんて知る由もないわ。」
ルディーナは入口の方へ目を遣った。足音が聞こえて来る。二つ、三つ、四つ、否、五つだ。
「遅かったわね。」
ルディーナは先頭にたって現れたキリーに歩み寄った。
「穴に潜ろうと言うなら準備は十分にしとかねえとな。」
キリーとグレンは大荷物を下ろし、セレネスとイレイアは防寒着を取り出した。ルディーナはそれを受け取りながら、見知らぬもう一人に目を向けた。
「あなたがヴィスキーさん?」
「んにゃ、サイファ・セトラってんだ、よろしくな。」
サイファはそこに居る面々を順に見回し、驚いた様に口笛を吹いた。
「こりゃまた綺麗処揃いの御一行様で。」
若い男なら誰でも有りうる反応だろう。彼はルディーナ、キャシー、ソフィエーリアと手を差し出して握手する。しかしエスターに向けた時、一瞬躊躇したかの様に動作が止まる。
「どうかした?」
「あ、いや、別にな。」
「お前は態度が軽過ぎるんだよ。」
キリーはサイファの背をドンと叩くと石扉に向かった。
「ほらな、此処から先は行けねぇだろう?」
そしてルディーナに封印を指し示す。だが、
「最近、封印を解いとるな。」
扉を一目見たグレンの言葉に頭を掻いた。
「判っていたからこれだけの準備をしたんでしょう?」
ルディーナに駄目を押されてハハハと笑う。
「どう、開けられそう?」
「構造が判らん。暫く掛かるぞ。」
グレンは腕を組んで石扉を睨む。するとサイファがそこに割り込んだ。
「俺は単なる頭数に付いて来た積りはねぇぞ。」
そして彼はセレネスを手で招く。
「あんた魔法使いだろう?中覗けるか?」
「私よりルデルの方が適任ですよ。」
セレネスはとぼけてルデルに振る。
「若者よ、働けってか。」
サイファは笑ってルデルの肩に手を置いた。
「それは、私とて出来ぬではないが・・・」
ルデルはずけずけとしたサイファの物言いにやや不満顔だ。
「中を覗いて像を俺に見せてくれ。で、俺が言う部分を魔法で動かしてくれるか?」
ルデルはサイファの顔をまじまじと見つめる。その魔法に『慣れた』対処を意外に思ったのだ。
「俺は男色の趣味は持ってねえな。さっさとやれや。」
しかしまあ、口は悪い。ルデルはむっとしながらも、しかし目を閉じて壁に手を当て、呪文を唱えた。平らな石壁の向こう側の何やら判らない複雑な機構が浮かぶ。透視の像は彼の肩に置かれた腕を通してサイファの脳裏に送り込まれた。巨大な歯車と錘、それを抑える留金と閂。
「ああ、それじゃねえ。隣の、それだ。」
指示の通りルデルが魔法で閂を外すと、石扉は殆ど音も発てずに開いた。これ迄とは打って変わって、奥からは冷たい空気が忍び寄る。と、同時に聞こえて来る水の流れる音が大きくなった。にも拘わらず、壁から水が染み出ている訳でもない。
「何ちゅう精巧な仕掛けだ。」
グレンは驚きを隠せない。と同時にサイファの技量に
「見事なもんだ。『特殊技能』とはよく言ったものだな。」
感心して唸った。
「実は前に来た事が有ってな。こいつは魔法使いじゃなきゃ開けられねえ様になってるのさ。」
サイファは鼻の頭を掻く。
「魔法使いでは仕組みが判るまい。」
「だから俺みたいなのが要るのよ。それ位じゃなきゃ封印の意味無えだろ。」
「魔法アレルギーのドワーフではこの考えには至らんか。」
ルデルはコートを羽織りながら扉の裏を覗き込む。もっとも、裏に回ったからと言って機構が剥き出しになっている訳でもない。
「しかし、此処を先に通った者がいるとなると・・・」
つまりこの手の技術に明るい者と、それなりの魔法使いが関わっている事になる。
「何やら厄介な事になる気がせんか?」
ルデルがルディーナに視線を送る。ルディーナは涼しい顔。どうやら図星の様だ。
封印の大扉を抜けやや狭くなった道を暫く行くと、太い石柱の林立する巨大な空間が広がっていた。広間は正方形で、左右正面の全てに同じ数だけの通路が伸びている。振り返れば今来た道の両側にも同じ数の通路が口を開いており、しかもそのどれもが同じ様な造形だ。
サイファは入って来た道の壁に赤い絵の具で何かの記号を書き込んだ。よく見れば過去にもそうして付けられたのであろう目印がそこら中に付けられており、
「今更って感じだけど。」
キャシーが呟くが、
「こう言う所では他人の目印なんざ信用するもんじゃねぇ。」
サイファは軽くいなした。確かに、目印だらけでどれが何を意味するのかも怪しいものではある。
「って言いながらこんなもんを持ってきてるんだがな。」
彼は腰のポケットから折られた紙を持ち出して広げた。
「地図?」
「俺も来た事が有るのは此処迄でな。」
「そうなの?」
「そもそもが物好きな奴らに封印の解錠を頼まれたってだけだからな。好奇心で少しばかり付いて来ては見たものの、俺の中の虫が騒ぎやがるのよ。なーにも好き好んで実入りのねぇ危険に身を晒す事もねぇだろってよ。結局連中とはその儘おさらばさ。」
「その人達はどうなったのよ?」
「聞いた話じゃ、一週間後に半分死んだみてぇな面で這い出て来たとよ。で、そう言う奴らが代々調べて来たのを纏めたのがこの地図って訳だ。」
確かに、古来より知られた迷宮遺跡であるならば探索した先駆者は少なくなかろう。それらの者達が書き残した資料が無い筈は無い。
道は皆平行に真直ぐに走り、その先で横の通路と直角に交わっていた。それらは一定の間隔を置いて続いている。格子状構造だ。そして大分奥に幾つか印が付けられている。次の階層への入り口であろうか。
「ま、歴代の迷子共が作った地図じゃ何処迄信用して良いもんだか、行ってみねえと判らねえがな。」
サイファは通路の一つ一つを覗き込み地図をチェックし、見当をつけるとルディーナに視線を送った。
「折角の大所帯だ、手分けするかい?」
「あなたが二人いるならそれでも良いんだけど。」
「煽ててくれるなぁ。」
先導はサイファで決まりと言う事だろう。
「取敢えず地図の一番右の印の所まで行ってみましょう。地図と照らし合わせて信頼出来ると思えるならばその儘に進んで良いわ。」
「りょーかい。」
サイファはふわふわと漂う光の精霊を一つ指で拾い、先頭に立って歩き出した。危険に備えてキリーが直後に付き、二人からわざと距離を置いてグレンとキャシーが続いた。そして魔法使いのルデル、セレネス、イレイア、ソフィエーリアを挟み、殿(しんがり)をエスターとルディーナで守る。とは、固まり過ぎては不測の事態に纏めて被害に遭いかねないからである。これならば何かあっても先達だけの被害で済む。冷酷な様だが、後続が安全を確保出来ていればこそ初めて救出も出来ようもの。程度の違いこそあれ前衛を本体から切り離すのは多人数での移動の際のセオリーである。
サイファは分岐に立つ度に地図と照らし合わせた。暗闇に消える本道以外の先はとりあえず見当をつけるだけで放置。そちらの行方も都度確認出したいところではあるが、先が有れば切りが無い上、却って迷う危険が高まるからだろう。幸い、オークやらコボルトやらの痕跡は見えない。それは洞内での食物の供給が出来ていない、若しくはかなり難しい『深部』にこの場所が位置している事を意味していた。外界との接触を断つ『封印』が、例外はあるにせよ長く機能してきた証でもある。
何度かの休止を取った後、彼らは無事に印の場所に辿り着いた。そこに在ったのはまるで井戸の様に真上に向けて伸びる空洞と、その壁に施工された石段だった。察するにリールの入り口を最下層としてレネダリアの岩盤の中に多層構造が広がっているのであろう。考えてみれば、あれだけ水の音がするのだから、迷宮が地下に向かっていては当然に水没している筈だ。
彼らが螺旋状の階段を暫く上がると、またも石柱の林立する広間に出た。サイファが二枚目の地図を広げて辺りと擦り合わせる。道は四方に各三本ずつ。だが、他の『階段』との連絡道の線が一枚目の地図程にしっかりしていない。極めて曖昧で、中には点線で描かれた道や空白部分もある。しかもそのどれもが外縁に迄達しておらず、先が描かれていない。
「随分と酷い地図ね。」
覗き込んだルディーナは言う。まるで描いているうちに嫌気がさして筆を投げたのか様なしろものだ。
「迷宮の所以だぁな。ここから先は満足に地図も作れねぇとよ。」
頭をぼりぼり掻きながらキリーが言った。ルディーナは腕を組み、人差し指で二の腕をトントンと叩いた。
「東の真ん中から行きましょう。目印をお願い。そうしたら後はひたすら右側で。」
今更常識だが、単層の迷路は右手ないし左手のみを壁に付けて歩けば必ず出られる。洞の外縁に出口が無いならば入口に戻される事になるだけだ。時間は掛かるが、間違いのない選択である。が、それで片付く位なら、如何に巨大な迷宮と言えどとっくの昔に調べつくされている筈だし、あの様なあやふやな地図が出来る筈が無い。つまり、探索を難しくする何かがあると言う事だろう。
洞は幾らも行かぬ内に分岐してはまた合流し、回り道をさせては彼等を惑わそうとしていた。水の流れる音は相変わらず洞全体に響き渡るかの様だ。彼らは常にさっき通った場所の様な錯視を覚えながら、何度も休憩を挟みつつ奥へ奥へと進む。やがて、やたらと頻繁に曲がり角が続くが分岐の無い一本道に入った。
「しかし、あの姐ちゃん、何でこんなしょうも無いもんに興味を持ったかね。」
サイファはボードに張り付けた地図に加筆しながら声だけでキリーに問う。
「さてなぁ。」
「で、この大人数にあの大金だろ、何者だい?」
サイファはまた頭を掻く。
「ありゃ、リントール・サーティーンだ。」
キリーの言葉にサイファの羽ペンが止まった。
「これ、やばい話なんじゃねぇのか?」
「かもな。」
「おいおい、その危険な女にあの化け物みてえな奴って何の冗談だ?」
「化け物?」
サイファの唐突な言葉にキリーは眉間に皺を寄せる。
「惚けんなよ。エスターって言ったか?あれは・・・」
「そんな変な奴か?」
「薄っ気味悪いんだよなぁ。」
「まあ、女でもねえのにあの容姿だからな。ってか俺も初めは女だとばっかり・・・。」
キリーは半ば呆れた態で笑う。
「そっちの意味じゃねえよ。」
「片割れと同じ顔だろうが。」
「お前にゃ区別がつかねえのか?」
サイファは顔を上げた。
「まあ、雰囲気が違い過ぎるから間違う事は無えがな。」
「そこよ、傾国の美女ってのはこういうもんかってな顔はしてるがな、なーんかな。」
「そんなに気にすんなよ。相手が何であるにせよ、額にゃ不足無かろ。」
キリーはサイファの頬をぺしぺしと叩く。そんな風にサイファの疑問を軽く受け流しながら、キリーは先日の事を思い出していた。
「エルフィカイエスの息子だぁ?」
キリーはつい声を上げてしまう。その名前は忘れられる筈も無い因縁の名前だった。テーブルの向かいに座るセレネスやグレンにしても同じ筈だ。
「つまり、それか。お前らが今此処にいる理由は。」
セレネスはただ黙って頷いた。
「てぇと、あの女騎士がエール・カイゼルのお代わりって訳か?」
「さあ、そこまでは判りませんが、アルバートラーオ王から何かしらの指示は受けての行動でしょうね。」
セレネスは両肘を付けて掌を組む。そこに軽く顎を乗せるのは、まだ納得出来る結論が持てないと言う事なのだろう。
「それが地下迷宮か。目的は何なんだ?」
「以前、エルフィカイエスが漏らした事があります。エルンからは秘密の古道が方々に通じていると。」
「カービスは重要拠点だ、繋がっていても不思議はないな。」
「ええ。此処からは私の推測なんですが、地下迷宮とはその出口の一つの目晦ましなんじゃないかと。」
「無い話ではないな。目立ち過ぎるが故に誰もがまさかと疑って信じもせん。しかもあの大構造なら軍勢の移動も十分に可能だろうて。」
とグレン。だがキリーは今一つ腑に落ちない様子で腕を組む。
「なら、ルディーナの意図は何なんだ?」
「その前に、レネダリアの勢力図を思い浮かべてみてください。中央のアイセル王、北辺のアート・ヴァルドー、南部のフリードリヒ、カービスの空白地帯。今は混乱の中ですから各勢力にこれと言った動きは無いですが、アイセル王が体勢を立て直してしまえばフリードリヒ単独では対抗できません。ですが、かと言って彼にアート・ヴァルドーと手を組むなど間違っても出来ないでしょう。となれば状況が落ち着いてしまう前に、アイセルとの中間に位置してその先兵ともなりかねないベネティクト伯を取り込むか、少なくとも無力化しておきたい。そこでリールのフィルツェ家を取り込んでベネティクト伯の資金源を断ちそれどころではなくしてしまう。と同時に自己の財力も強化したい・・・と、まあ、そんな所ですか。」
「フィルツェ家はベネティクト伯とは姻戚関係だぜ?」
「とは言えベネティクト伯に撥ねられる上前も馬鹿にはならないでしょう。そこにベネティクト伯の持つ権利をそっくりくれてやると言えば?」
「・・・強欲なマラーンの事だ、全掛けはしないまでも両面策としては『乗る』な。」
キリーは思いもかけない方向に事態が転がって来た事に、目をらんらんと輝かせて大きく頷いた。
「ルディーナはそれを察知して潰しに掛かってると言う訳か。つまり、ジュダースとしてはフリードリヒの勢力が大きくなるのは避けたい・・・てか。」
「そこが解せないのですよ。アルバートラーオ王の野心がまだ燻っているのは間違いないでしょう。しかしだったら、反乱に手を焼いているとは言え、未だ優勢なアイセル王に利する様な事をするでしょうか?」
セレネスは首を傾げる。
「なに、流れに乗ってれば何れ判る事さ。
・・・さて、この先に鬼が出るか蛇が出るか。」
現実に戻ってキリーは呟いた。
「あん?」
サイファが不思議そうに眉を顰める。
「何でもねぇよ。」
キリーははぐらかしてサイファの頭を鷲掴みにしくしゃくしゃとかき回した。
「こんな事ならラシュネスとブランドラーも連れて来りゃ良かったぜ。」
サイファは鬱陶しげにキリーの手を払う。そしてぶつぶつとぼやきながらまた歩き出した。
「そしたらオールドの親爺の周りは誰が固めるんだよ。」
「本当ならヴィスキーの兄貴が心配しなきゃならん事だってのに、親父ほったらかして何処ほっつき歩いてんだか。」
「いい歳して何時迄親子喧嘩でもねえだろうがな。」
「いや、それは歳関係無えべ。」
サイファはケラケラと笑う。だがふと、現れた分岐を前に立ち止まると乱暴に頭を掻きむしった。右も左も正面も奥まで続く漆黒の闇。
「やっぱりズレてやがる。」
「何だと?」
「道の位置関係が合わねえ。この道を右に行ったら直ぐに行き止まりの筈だ。が、奥まで真直ぐ続いてる。距離的に言って辿って来た道に当たっちまう。そんな横道在ったか?」
ずっと右手に壁を置いて来たのだ、右側に横道が有った筈が無い。
「上下にずれてんじゃねえのか?」
「いや、傾斜は無いぜ。」
サイファは球を取り出して落としてみる。それは甲高い音を立てて跳ねるが、ほとんど転がる事もなく足を止めた。サイファは今度は定規を取り出して角に当てる。角は直角に見えて微妙に鋭角になっていた。
「騙し角だ。」
サイファは舌打ちした。この地図を描いた者も最初の格子状の通路で角が常に直角だと思い込まされたのだろう。実際、通路自体は直線だったし、分岐の対道も真直ぐだった。が、実際は折角や交差は僅かにずれていたのだ。一回当たりは少しでも交互に鋭角鈍角を繰り返されると気付かぬ儘に明後日の方角へと誘導されてしまう。そうなると、何度か通った『回り道』も果たして本当に単なる『回り道』であったのかどうか。地図はその矛盾を解決できぬままに描かれ、放置されたのだろうか。
『いや、この迷宮の仕掛けがこんなお手軽な筈はねぇ。』
サイファは地図のまだ行っていない部分に大きくバツ印を付けた。
「一度戻るか?」
キリーが問う。
「右手は離しちゃいねえ。元々当てにならん地図な訳だし、別に何も変わらねえよ。」
サイファは再びそのまま歩き出した。まだ確認していない場所の間取りの見当がつかなくなったと言うだけで、基本的な方針から外れた訳ではない。今迄通り右手を付けて歩くだけだ。それで次の階層に出るなら良し、元に戻ったなら戻ったでその部分の全体像は把握出来る。
『所詮一回目の調査なら収穫はせいぜいそんなもんだ。』
と思ったが、直線の一本道を延々と歩かされた末に明かりが照らし出したものは、距離の差こそあれ袋小路の行き止まりだった。ただ見えもしない水の流れる音がやたらと響き渡っている。
「ど畜生めが、さっきの分岐迄戻りだ、戻り。」
キリーは悪態をついて壁を蹴ると、後続のルディーナ達に戻れの合図。
それを見たエスターは、やれやれとばかりに肩を浮かせ、来た道を戻る。そもそもこの様な迷路に無駄足は付き物だ。仕方が無いと割り切りつつも、だが疲れた体は正直だ。空腹感も強い。何より、
「大丈夫?」
エスターはソフィエーリアに声を掛けた。彼女は静かに頷くが、先日の様子を思えば体調も気になる。
「露営にしましょう。」
ルディーナも同じ事を思ったか、曲がり角を手前に立ち止まった。行き止まりの袋小路なら長い休息には寧ろ好都合だろう。だが、
「角?」
表情が固まる。先の分岐から一度も曲がり角など無かった筈だ。
「これは一体。」
エスターも異変に気付いて角に駆け寄った。その時、肉を切り裂く鈍い音がした。エスターは恐る恐る足を見る。壁から突き出した槍が右大腿部を貫いていた。
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